翌日から、またいつも通りの毎日がはじまった。
専業になったことで多少仕事の煩雑さは減り、作業に集中できるようになったのはありがたかった。
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僕は、渚さんの言った「人手が足りない」という言葉を頭に無理やり言い聞かせるようにしてかろうじて気力を保った。
あてのない僕にとっては、彼女は大恩人だった。
多少なりとも人手の少なさをカバーできれば、僕は彼女の役になったことになる。
その一心だった。
だが、しょせんカラ元気という気もした。
現実問題として、やはり仕事ができないという事実には変わりなかったからだ。
1年たって多少は慣れてきていたとはいえ、元のスタート地点のレベルが低すぎる。
作業の流れを止めてしまうこともたびたびだった。
そんな具合では、気力だけでもたせるにも限界がある。
なにかあるたびに、すぐに陰鬱な気分にもどってしまうのが常だった。
今考えると当時の僕は、そんな思考が完全にクセになっていたのかもしれない。
そんなある日のことだった。
珍しく渚さんは、僕に残業を依頼してきた。
よほどのことがない限り、バイトは定時で上がらせるのが彼女の主義だったから、これには面食らった。
「ごめん、突然で悪いんだけど、今日、残業いいかな。ちょっと遅くなるかもしれないんだけど」
「はい、予定はないので大丈夫ですが…何かあったんですか?」
「あ、ちょっとね…詳しい指示は、あとで出すから」
そそくさと渚さんは持ち場へ戻っていってしまった。
何となく歯切れが悪い気がしたが、僕はたまった仕事でそれどころではなかったので、そのことは一旦忘れた。
定時になって、渚さんはもう一度顔をみせた。
「ごめんなさい。ちょっと立て込んでて、今やってる仕事、もう少し続けててもらっていいかな」
異存はまったくなかった。
むしろ、今日やるはずの仕事が終わっていない状態だったので、切羽詰まっていた僕としてはありがたいくらいだった。
次の日に持ち越して気に病むよりもずっといい。
ただ、気になったのは、僕以外のバイトの人たちが既に全員帰宅していたことだった。
この様子を見る限り、メンバー総動員でやるような話ではないのは間違いない。
けれど、それなら何をするんだろう。
過去の例を見る限り、わざわざバイトを残すというのは、かなり大規模なケースばかりだったはずだけれど…
疑問を感じながらも、僕は言われた通り作業を続けた。
だが、時間がどんどんたっていくにも関わらず、本題である渚さんの指示はいつまで待っても出てこなかった。
時々顔を見せてはくれるのだけれど、「もう少し待って!」の繰り返し。
こんなことは、これまでまずなかった。
彼女は段取りのよさにかけては飛びぬけていたのだから。
黙々と普段の作業を続けながら、なんとなく僕は不穏なものを感じ始めていた。
いつの間にか、フロア内には正社員の人さえいなくなっていた。
さすがに何かおかしいと思い始めたとき、渚さんが今日何度目かの姿を見せた。
「ごめんなさい、遅くまで待たせちゃって。じゃあ、始めましょうか」
「は、はい」
「こっちに来て」
多少僕は言葉に詰まった。
渚さんが、なんとなく普段と違う雰囲気だったからだ。
どこがどう違うのかはわからなかったけれど。
「かなり立て込んでたみたいですね」
「…うん。それに、人がいても困るからね」
意味が分からなかった。
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渚さんの後について、バックヤードの通路を歩いていく。
窓もない、昼間でも薄暗い通路は、この時間だと不気味ささえ感じた。
渚さんは、何も言わずに歩を進めていく。
ここまで何の説明もないし、どこに行くのかも聞いていない。
どう考えても、これから残業をしようという空気ではない。
たまらなくなって、僕は渚さんの背中に向かって声をかけた。
「あの、残業って何するんですか?」
「…あなた、この間役に立つ自信がないって言ってたよね」
静かな声だった。
「はい。言いましたけど…」
「今日はね。あなたにしか頼めない仕事があるの」
「…僕にしかって…それはないでしょう。他の方のほうが…」
「あなただからこそ役に立つ仕事なのよ。確実に」
「?」
彼女が何を言っているのか、僕にはまったくわからなかった。
僕云々はともかくとしても、特定の誰かにしかできない仕事なんてこの職場には存在しない。
だが、彼女はそのままの口調で続けた。
「うちの売り場、どう思う?」
「売り場…ですか?いい売り場だと思いますけど…みなさんも優しくて…」
「そう…実はそうでもないんだけどね」
「え?」
「裏では色々人間関係、ドロドロしてるのよ。今のところなんとかおさめてるけどね」
「そうなんですか?信じられません…」
「そう見えないようにはしてるからね。でも、わたしとしてはストレスがたまって仕方がないのよ」
「そうは見えませんけど…」
「これでも結構溜まってる。利害調整もそうだし、みんなのご機嫌とったりなだめすかしたりしてるとね」
はじめて聞く職場の裏側に、僕は驚くしかなかった。
1年以上勤めていながら、そんなことは全く気付かなかった。
それに、渚さんの、普段からは想像できない激しい語り口も意外だった。
声は静かだったけれど、それが余計にすごみを増している。
「それに、わたし、前から結婚相手見つからないってぼやいてたじゃない?」
「はい、でも、結構冗談っぽかったですよね?」
「残念ながら本気。だから、そんなに気持ちの余裕があるわけじゃないのよね」
「僕から見たら全然わからなかったですよ…」
「見た目だけ良く見せるのは得意だから。でもね、だからって納得できるかっていうと別なのよ」
遠くで、ガコン!と貨物用エレベーターの開く音。
続けて、それに乗りこんでいく足跡が聞こえた。
この時間だと、警備員さんだろうか。
「自分の売り場だから思い入れはあるよ。少しでもいい職場にもしたい。でも、そのために自分のしたいこともできずにみんなの帳尻あわせを必死でしてると思うとね、時々叫びたくなる」
「…」
「だいたい、みんな彼氏とか旦那さんとかいるじゃない?いろいろあるっていったって、相談でも何でもできるじゃない?気持ちをさらけ出せる相手がいるわけじゃない?」
「!?」
「なのに、なんでわたしばっかり一人で抱え込まなきゃいけないの、って思う」
渚さんの声が、かすかにふるえていた。
僕はもう、何も言えなくなっていた。
「…仕事だから仕方ないっていうのはわかってるんだけどね。でも、時々なにもかも忘れたくなるのよ」
「…」
「今日あなたに頼みたい仕事は、それに関することなの」
彼女の意図がまったくわからない。
さすがに何のことなのか尋ねようとしたとき、彼女が立ち止まった。
「お待たせ。ここが、今日あなたに残業してもらう場所よ」
「…え!?あの…どういうつもりですか!?」
そこは、職員用の女子トイレだった。
呆然とする僕に、渚さんは淡々と言い放った。
「遅くなっちゃったけど、残業の説明するわね。今からここで、わたしと性交してもらいます」
やはり静かな口調だったけれど、ぶん殴られたようなショックだった。
自分でも、ごく普通の反応だったと思う。
いくらなんでも、常識を外れている。
しかも、相手はこれまでそんな片鱗をまったくみせたことがない上司なのだ。
信じろという方が無理だ。
思わず問い返す。
「な、何のつもりですか!そんな冗談…」
「わたしは本気だよ。ただの冗談ならここまで長々説明しないわよ」
「そ、それにしたってありえないでしょう!…まさか同情とかだっていうなら…」
「…同情がまったくないかっていうと嘘になるけどね。でも、それだけでこんなこと頼むわけないでしょ?」
渚さんがまっすぐ僕のほうを見つめていた。
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