3年前のバレンタインの話だ。その年、俺は妻に逆チョコを贈ることにした。
聞いたことがない人もいると思うが、文字通り、男から女にチョコを贈るというやつだ。
あまり一般的じゃないので渡し方が難しいのが欠点だけれど、決まればかなりぐっときてくれるらしいという話を聞きつけて、まあやってみようか、と思ったのだ。
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夫婦でそこまでするか?と思うかもしれない。でも、妻は結婚してからも毎年俺にチョコをくれていたし、それの逆をやるだけだ。
それに、その前の年、俺は極端に忙しくて余裕がなかった。ほぼ丸一年の間、家にも帰って寝てしまうばかりで、ほとんど一緒に過ごした記憶がない。
これはよろしくないだろうと思った。
共働きだし、妻だって忙しいのは変わらないのだ。多少は感謝の意を表明したって、罰は当たるまい。
それに、率直なところを言えば、俺自身妻との触れ合いに飢えていた。結婚してからまだそんなにはたっていなかったし、倦怠期には早すぎる。
そんなわけで逆チョコを贈ることはすんなり決めた。
問題はどうやって渡すかだった。もちろんホワイトデーでのお返しくらいは俺だってやっていたけれど、逆チョコとなると要領がわからない。
色々考えた結果、結局俺はコテコテの方法をとることにした。
おしゃれなレストランを取って、そこで食事でもしながら渡すのだ。
どうせ、逆チョコなんてどうやって渡したって恥ずかしいのは変わらないのだから、変な照れ隠しをしても意味がない。
レストランについては、妻の好きそうな店はわかっていたから、決めて誘うまでには苦労はなかった。
妻は、それだけでも嬉しそうな顔をした。
それだけで奮発した甲斐があった。俺の給料を考えたらかなり痛い出費だったけれど、十分帳消しだ。
予約した店は、ちょっとした海辺のリゾートっぽい雰囲気のレストランだ。
バレンタイン当日、俺と妻は電車に揺られて、その店に向かった。
毎回自分でも思うのだけれど、クルマがないと、やっぱりこういう時は格好つかない。もっとも、妻は移動が割と好きで、車だろうがなんだろうがまったく気にしないタイプだから助かる。
だいたい、首都圏だから車なんてもともと趣味じゃなければ役に立たないのだ。通勤にあれほど使いづらいものもない。
そして、俺にも妻にもそういう趣味はなかった。デートのためだけにそこまで出費できるほど、金持ちなわけじゃない。
電車を乗換え、ガタゴトと遠路はるばる揺られて、俺と妻は、やっとのことでレストランに到着した。
計画を立てておいて言うのもなんだが、感覚としてはもう小旅行と言った方がピッタリだった。ここまでくると、駅前にも首都圏の雰囲気はまるでない。
店のことばかりを気にして、距離のことを考えていなかったのだ。内心、失敗したかなと思ったくらいだ。
ただ、その分店の方は期待通りだった。むしろ、味にしろ雰囲気にしろまさにリゾートという感じで、期待をはるかに超えていた。
なにより、妻とこんなにゆっくりするのは、本当に久しぶりな気がした。
「いつくらいぶりかなあ、こういうの…」
妻も、似たような気分だったようだ。年一回のワインでほんのり赤くなりながらも、妻はテーブルの向こうでほほ笑みを浮かべた。
年下の妻がこういう顔をすると、いまだに俺は結婚前のデートのような気分になってしまう。
最近は大人びてきたとはいえ、やせ型で、みためもどこか小動物っぽい雰囲気の妻は、とても三十前には見えないのだ。
年甲斐もなく、少し自分の顔が熱くなるのを感じた。酒のせいばかりじゃないと思う。
「今年はもうちょっと、一緒にいようね」
「そうだな。ようやく多少楽になってきたから、そうなると思う」
「期待してるよ?」
妻は嬉しそうだ。やっぱり寂しかったのかもしれない。悪いことをしたな。
そう思っていると、妻がおもむろにチョコを取り出してきた。既製品だけれど、毎年のことながら立派なチョコだった。
「はい、これ」
「ああ、いつもありがとう。…それでさ…」
「ん?」
おおかたそうなるだろうとはわかっていたけれど、こっそり用意していた逆チョコを取り出そうとして猛烈に恥ずかしくなった。
妻に対してそんな気分になるのもおかしな気がしたけれど、むしろ妻相手だけになおさら恥ずかしい。これが恋人時代だったら、ここまではなかっただろう。
けれど、このタイミングで渡すのが一番自然だろう。これを逃したら、ますます渡しづらくなる。
無理矢理踏ん切りをつけて、俺はチョコを掴み、できるだけ平静を装って手を前に差し出した。
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「あ、あのな、これ…、俺からも」
「え!?ちょっと、何!?」
「逆チョコ…」
「…ありがと…」
予想もしていなかったのだろう。逆チョコを手にした妻の反応は、俺が考えていた以上だった。
両手で大事そうに持ったまま、目をうるませてぼんやりとしている。
「すごい…嬉しい…なんなのこれ…」
「ま、まあなあ、去年一年のお礼も兼ねてさ」
「…なによお、ご機嫌取り…?」
「そ、そういうわけだけでもないけどさ…」
「…いいよ、ご機嫌取りだって…何よ、もう…これ…食べられないよ…もったいなさすぎて…」
妻は、チョコの箱を顔に押し付けて、真っ赤になってしまった。
妻の背後で、店員が声をかけるのをはばかるように、さりげなく身をひるがえした。気の利く店を選んで本当によかった。
妻がある程度落ち着いたところで、店を出た。
久しぶりの酒がかなり回っていたが、2月の冷たい空気にさらされると、いくら上着を着ていても酔いがさめていく。
ただ、妻はそれでもうっすらと顔が赤かった。
まだ興奮冷めやらぬ様子だ。これだけ喜んでもらえると、俺も思い切った甲斐がある。
ゆっくりしすぎて、夜もかなり遅くなっていた。
まだ終電というほどではなかったけれど、距離が距離だ。早めに帰った方がいい。
そう思って、駅への道を歩き出したときだった。
妻が、俺の袖を指でつかんで、引っ張った。
「ねえ…」
「ん、どうした?」
一応聞き返したものの、俺は驚いていた。
妻は、普段はこんなことはまずしない。
逆に、まれにこういうことをしてきたときは、100%、言い出すことは決まっていた。
恋人だった頃から、そうだった。妻は、我慢できなくなったときにだけ、こういうことをしてくるのがお決まりだったのだ。
ちなみに、言うのも野暮だが、我慢できないというのは性欲のことだ。
「…したくなっちゃった…」
「おいおい…今日はえらくいきなりだな…じゃあ急いで帰るか」
もともと家に帰ったら、たっぷりセックスするつもりだったのだ。
しばらくご無沙汰だったから、俺だって楽しみにはしていた。
でも、妻の欲求は、そんな俺さえはるかに上回ってしまったらしい。
「ダメ…そこまでもたない………なんかさっきのでおかしくなっちゃったみたい」
妻はもうもじもじしている。
さっきの?…逆チョコのことだろうか。
気持ちが高ぶり過ぎて、身体まで興奮してしまったんだろうか。
「あれだけでか?大したもんでもないのに…」
「そんなこと全然ないよ…身体、熱くなっちゃって仕方ない…」
確かに、そのようだった。
久しぶりのデートだと言うことで、妻はかなりおしゃれな服を着ていた。ドレスではないけれど、印象としてはそれに近いワンピースだ。
それだけに薄手だし、第一スカートだ。もちろんコートやらなにやらも上から着ていたけれど、それでも俺に比べたらかなり寒いはずだった。
けれど、その時の妻にはそんな様子がまったくなかった。寒がるどころか、首筋にはうっすらと汗まで光っている。
間違っても、店の暖房の効果が残っているわけじゃない。俺の方は、早くも身体が冷え切り始めていたんだから。
けれど、妻におねだりされるのは、俺としてはやぶさかではない。
むしろ、懇願するように俺を見上げてくる妻の顔を見ていると、俺まで急激にしたくなってきた。
「よし…予定変更して、ホテルでも探すか」
「そうしよ…入れれば、どんなところでもいいから…」
妻の声からは、相当切羽詰まっているのがありありと伝わってきた。
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