先に書いておくが、この話は別に怪談ではない。
幽霊のようなナースがいたというだけの話だ。
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彼女が最初にあらわれた(あらわれたと書いた方が俺の実感に近いのだ)のは、ある夕暮れのことだった。
その時、俺は病棟の屋上でひとりたたずんでいた。
そろそろ風が冷たくなり始めたころで、長い時間ボーっとしていたせいで思いのほか身体が冷えこみ始めていた。
夕日が気味が悪いくらいに真っ赤で、どこか気持ちの悪ささえ感じたが、その時の気分にはマッチしていた。
俺はその日、さんざん指導医に突っ込まれてかなり落ち込んでいたのだ。
もっとも、それは連日のことだった。
俺はもともと落ち込みやすい性格だったし、指導医は今から考えてもかなり喜怒哀楽の激しい人物だった。
相性が悪かったのだ。
だから、新人の俺は毎日のように怒られ続けていたし、そのたびごとにガックリと肩を落とすのがもう定番になっていた。
そんなとき、俺はこの屋上で物思いにふけるのがお決まりだった。
別に気が晴れるわけではなかったけれど、それは当時の俺にとって冷静になるのに必要な時間だったのだ。
いよいよ夕日が沈もうという時、俺は唐突に背中をトントンと叩かれた。
手ではたくという感じではない。指先でチョンチョン、と言った感じだ。
びっくりして振り返ったところに、その女は白衣を着て立っていた。
それまでまったく気配を感じなかった。
屋上に入ってきたのにさえ気が付かなかったのだから。
切れ長の目をした、色白の女性だった。
背は多少高めといったところ。
肌が驚くほどに白く、それが沈みかけの日光に照らされて赤く染まっている。
恐ろしいほどの美人だった。
だが、俺にはどこか、気持ちが悪かった。
いきなりで驚いていたことを差っ引いても、彼女には生気がまったく感じられなかったのだ。
「…なにされてるんですか?」
彼女が小さな声で言った。
高い、綺麗な声だ。
鈴を鳴らすような声、というのはこういうのを言うのだろうか。
「ああ、いや…」
俺は口を濁した。
落ち込んでいるなんて、恥ずかしくて言えたものではない。
だから、そのあとに続いた彼女の言葉に俺は心を見透かされた気がした。
「…ここ、落ち込んだときにはいいですよね…」
俺の思考をそのままトレースするかのように、彼女はつぶやくように言った。
思わず彼女の顔を見返す。
彼女はほほ笑んでいたが、感情はまったく伝わってこなかった。
俺はなんとも居心地の悪い気分になって、なんとなく顔をそらした。
大して時間もたっていなかったはずだが、夕日はもう半分くらい見えなくなっていた。
だが、彼女の顔を見ていられなかった俺にとっては、視線を強引に固定する対象としてちょうどよかった。
いきなり、また背中を突つかれた。
ただ、今度は指先が背中から離れない。
背中全体をつーっとなぞっていく。
今度こそ、彼女の意図がわからなくなった。
俺は仕方なく、彼女をもう一度見返した。
さっきよりも照り返しが少なくなった分、余計に肌の白さが際立っていた。
白いというよりも、青白い。
おしろいでもぶちまけたかと思うような、不自然な白さだった。
その顔が、妖しく笑っていた。
この時、うっすらとだが彼女が何をしようとしているのかはもう察していた。
院内での情事の噂は時々聞いていたから、これもその一つなのだろうとは思ったのだ。
俺も男だから性欲はある。
ましてや、こんな美女だ。
向こうから誘ってくれるというのなら、断る理由は何もない。
ただ、それでも彼女の行動には脈絡がなさすぎた。
彼女の容姿の印象もあって、俺は正直気味が悪かった。
けれど、俺は、その本心を問いただすこともなかった。
なぜだか、そういう気になれなかったのだ。
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彼女の指はいつしか俺の上半身全体をはいずりまわりはじめ、俺はそれを身じろぎもせずに受け入れた。
ひとしきり俺の身体をなでまわしたあと、彼女は無造作にしゃがみこみ、俺の股間のものをむき出しにした。
その常軌を逸した行動を、俺は何の抵抗もせず、ぼんやりと、夢でも見ているかのように見ていた。
陰茎に直接触れた彼女の指は、イメージ通り冷たかった。
俺はそのまま、彼女のなすがままに肉棒をしゃぶられて、彼女の口の中に射精した。
精液を最後まで吸い取ったあと、彼女はおもむろに立ち上がった。
既に暗くなり始めた視界の中、喉を鳴らすかすかな音がした。
赤い唇から漏れでた泡立った精子を手でぬぐいながら、彼女はやはり笑みを浮かべ、俺を見つめていた。
これからどうする気なのだろうかとも思ったが、彼女はそれ以上なにもしてくる気配もない。
それどころか、何も言わなかった。
その顔にはやはり感情がみえなかった。
これだけのことをしていながら、ひとかけらの高ぶりさえ感じさせない。
俺はバツが悪くなって、また視線をそらした。
夕日はもう完全に沈んでおり、ただはるか遠くの空が少し赤く染まっているのが見えるだけだ。
それでも何かを言わなければという気はしたので、俺は視線を彼女のいた位置に戻した。
誰もいなかった。
いつの間にか、彼女はいなくなっていた。
肌寒い風が吹く中、俺は狐につままれたような気分で茫然とするしかなかった。
心労で夢でも見たんじゃないか。
そう思いたくなるほどだったが、1週間ほどたったあと、彼女はまた俺の背後にあらわれた。
今度は夜勤中の廊下だった。
薄暗い廊下で、後ろからつつかれたときは心臓が跳ね上がった。
振り返ったとき、彼女はやはり笑顔を浮かべて立っていた。
この間はまだ自然光の下だったが、今回は真夜中の照明の下だ。
彼女の顔はやはり綺麗だったが、能面のようにも見えるその笑顔は、気味の悪さがより際立っていた。
今度は一言もないまま、俺の白衣の袖を軽く引っ張り、人目のない廊下の影に誘い込んだ。
断るという気には、やはりなれなかった。
射精したとき、少し離れたところで明滅する電灯が、妙にまぶしく見えた。
彼女はそのまま、ときどき俺の周りにあらわれるようになった。
もともと落ち込んでいることが多かっただけに、日々の刺激になったのは事実だ。
それに、欲望を解消してくれるのだから、願ってもない状況のはずだ。
だが、回数を重ねれば重ねるほど俺はだんだん気持ちが悪くなっていった。
なにしろこれだけのことをしていながら彼女はほとんどしゃべらないし、何をかんがえているのかが相変わらず全く分からないのだ。
一体、なんのつもりでこんなことをするのか。
だが、彼女を前にすると、俺はやはり聞くことができなくなってしまうのだ。
正式に在籍しているナースであることはそれとなく確かめた。
俺は彼女の印象や行動の不条理さから、もしや幽霊か何かなんじゃないかという錯覚さえ覚え始めていたので、これにはホッとした。
同僚であるナースたちの話では、仕事中はともかく、仲間内の雑談などではほとんど話さないという評判だった。
彼女たちが一度本人に問いただしたところでは、口下手だからと申し訳なさそうにしていたらしい。
実際、ナースたちの噂を聞いても、彼女の私生活を知っている同僚は全くといっていいほどいなかった。
かろうじて、実家住まいということくらい。
趣味や恋人など、多かれ少なかれ女性同士の会話の中で見えてくるであろうそんなことすら、ナースたちは全く知らなかった。
どうやら、彼女のことを知らないのは俺だけに限ったことではなく、周囲の誰もがそうらしい。
それほどまでに、彼女は口数が少ないらしかった。
それは、彼女がしゃべらない理由としてもっともらしく思えたので、俺は一応納得した。
ただ、それは彼女の気味の悪さや俺に誘いをかけてくる理由の説明にはまったくなっていなかった。
その後しばらく関係が続いた末に、俺は彼女と身体を重ねることになった。
それが彼女との奇妙な関わりの終わりとなったのだが。
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